網干毅のリュート夜話 その6
イメージ・身体・リュートの楽譜


 佐野健二さんのプロデュースによる≪リュート音楽の楽しみ≫も、今宵で今年のシリーズはその幕を下ろします。これまでいろいろな楽器や声楽との組合せでリュートの持つ様々な魅力を満喫してきましたが、私の、この‘お目汚し’の小文シリーズも一旦筆を置くにあたって、今日はリュート演奏の「裏側」をご紹介しましょう。いえ、残念ながら、おもしろ可笑しい‘裏話’ではないのです。私たち聞き手からリュート奏者を見たときの「裏側」のお話し。演奏者のうしろに回ると見えるもの、そう楽譜のお話しを少々。
 皆さんは、いつも佐野さんがどのような楽譜で演奏されているかを存じでしょうか。ト音記号が頭に書かれた五線譜に、四分音符や八分音符そして休符が載せられている、普段私たちが見慣れている楽譜でしょう、とお思いの方は─もちろんそういった場合もありますけれど─、裏側に回つてその楽譜を見たとたん、きっとびっくりされるに違いありません。何、これ?って。
 それは右に載せたようなものであって、五線譜でもなければ、音符が線上を波うって流れている楽譜でもなく、またそこには旗に串刺しにされた和音の音符も見当りません。私たちが知っている楽譜の知識では「 読めない」ものなのです。
 このような楽譜は、もっぱら音楽学屋の業界用語で「タブラチュア[英語]」と呼ばれるもので、横線をリュートの各弦に見立て、押さえる場所を線上の数字で、そして各音の長さをいちばん上の音符によって示したものです。五線譜に書かれた音楽ならば、各音の弦上のポジションを一度頭で考えて弾かねばならないのに対して、この楽譜ですと、奏者は譜面に「沿つて」、その弦上の指定されたポジションに指を置くだけでいいことになるのです。その意味でこの楽譜は、身体にとても強く結びついているものといえるでしょう。
 実際、リュート奏者にとってこれはとても演奏しやすいという話しをよく耳にします。けれども反対に、楽器が弾けない人にとってはソルフェージュが困難でそのため、一度音にならないと音楽を把握することさえしにくい楽譜ともいえるかもしれません。
 正確を期して書き添えておくと、タブラチュアは15世紀から17世紀にかけての鍵盤楽器や弦楽器の記譜に用いられ、現代でもギターやマンドリンの演奏で使用されていますが、リュート・タブラチュアについていえば、その主な記譜法に、イタリア、フランス、ドイツ式の3種類がありました。現代のリュート奏者はそれらすべてに通暁していなくてはならないので大変です。
 いずれにせよ、西洋音楽において、音楽の姿─特に音の長さと高さ─の記号化の努力は五線譜という、いわば音楽を空間的イメージ化するかたちで結実し、そのおかげで、多くの人が色々なとき・ところで同じ曲を楽しめるようになったのですが、それを西洋音楽の表街道とすると、その裏にはタブラチュアのような、楽器上の身体(指)の動きをそのまま写し取るような楽譜も、かなり長いあいだ存在していたことになります。そしてこれは結構太い裏街道だったようです。
 では、この表街道と裏街道は全く関わりなく並行していたのでしょうか。その答えは、今宵リュートが、今「不幸」な言葉の知られ方をしている擦弦楽器‘ガンバ’とともに奏でるフォリアなどにあると思われます。歴史的に見ればさまざまな変遷を経ているものの、一般に解説されているように多くの場合、16小節の歌う旋律と、それを支えるバス声部が変奏をともなって幾り返される音楽であるフォリアは、その構造から、その場の高揚に応じた即興的な変奏が繰り広げられる可能性をもっており、なにも記譜される必要はないと 思われるのですが、現実には、今宵その一部を聴くようにおびただしい数のフォリアが残されています。これは、それだけ作曲者が自分の音楽、あるいは音楽として表現した自分のイメージを消え去らないかたちで伝えたいという欲求がなさしめたことなのでしょう。このように考えると、フォリアのような音楽から、音楽を空間的なイメージに移し替えた五線譜と、楽器上の指の動きを写し取ったタブラチュア、それぞれの発展の道筋は同じ地点に向かっていたことがはっきりと見てとれるのでしょう。

[No.6 Gamba & Lute Nov.8]


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