網干毅のリュート夜話 その5
開かれた劇場、開かれた楽器


 どのような文化でもそうなのですが、一つの文化は、ある楽器について共通のイメージを持っていたり、価値づけをしていたりします。そのようなことは、その音の特性・鋭い、柔らかい、くすんでいる、etc や、 素材・木製、金属製 etc、またそこに生きる人たちの好み、などによっていつしか使用する場が決まっていき、その長い歴史的積み重ねが、さらにその楽器についてのイメージを固めていく、という過程を経て醸成されてきたのでしょう。
 ヨーロッパでは、中世を通じて楽器についての、価値づけを伴うグループ化が進行し、14世紀になるとフランス語で「オー haut」と「バ bas」の大きくニつに分けられるようになりました。オーとバは、語義からは高音楽器と低音楽器ということになるのでしょうが、当時は鋭い音色対柔らかい音色といった意味であったようです。またオーにはショームやトランペット、バグパイプ、そして打楽器類が属し、それは軍事行動や祝宴など、主として野外で用いられ、弦楽器群やリコーダー類などが属すバは、宮廷舞踊や食事の伴奏など主として屋内でもちいられました。
 ところが、15世紀半ばになるとこの用いられ方が逆転し、管楽器群が室内で、リュートなど弦楽器群が屋外で演奏されるようになったと言われています。えっ、本当?リュートのような小さくて、やさしい音の楽器がどうして屋外なんかで演奏されたの、と思われるでしょう。もちろんその頃になると楽器の用いられ方は多様化し、これが絶対ということではありません。けれどもリュートの屋外使用はシェイクスピア時代のエリザベス朝劇場の形態を知るとやはり納得せざるをえなくなるのです。
 当時の劇場は多くの場合、桟敷席と舞台には天井があるものの、平土間は青天井になっていましたから、劇は大きな屋外空間に開かれて演じられていました。そうすると、確かにリュートは、劇の挿入歌の伴奏などでその開かれた空間に響いていたことになるのです。
 それでもなお、私などはどうしても納得できないことが残ります。当時の観劇態度はかなり賑やかなものであったらしく、そんなところでどうしてリュートが重要な役割をはたすことができたのか、と。
 シェイクスピア学者の青山誠子さんによれば、娯楽が乏しかったこともあり、劇場は開かれた場として、第一階級の貴族・ジェントルマン、第二階級の市民、第三階級のヨーマン、第四階級の労働者・農民・商人・職人、そしてその他の人々など、これらあらゆる階層の人々が集い、その週平均入場者数は多いときは1600年頃のロンドンの人口の20パーセントにも及んだそうです。またそのような観客の多さに加え、日本の大衆演劇でも見られるように、彼等は始終飲食や会話をしながら劇を見たので、ざわざわした感じがずっと劇空間を満たし、それに対していくども静粛な観劇を求める告知がでたとされています。
 けれども見方を変え、こういった状況でさえリュートが演奏されたということをまずは素直に受け入れてみると、逆に、挿入歌や楽器演奏を喜び、それに関心を集中する観衆の姿が浮かびあがってくるから不思議です。つまりそれほど、エリザベス朝演劇において音楽が重要であったということが明らかになるのです。
 先に述べたように、当時の劇場は青天井のもとにあり、照明も幕も、さらに書き割りや大道具も使われなかったのですから、劇の展開の状況はほとんどが言葉でなされました。たとえば、照明がないので、晴天の 昼間しか上演されない劇での夜の場面は「今は夜」と言わねば観客に「その時」が伝わらないというわけです。したがってその分リズムや抑揚が練りに練られた台詞が朗唱されました(今宵ギブズさんの朗読でそれは味わうことができます)。また観衆のイメージ喚起能力も研ぎ澄まされていたというべきでしょう。「夜」と聞いて暗さをイメージできなければ面白い劇体験にならないからです。そして、これは日本の「能」とも共通するところなのですが、いずれの場合もそこでさらに観衆のイメージ喚起力を高めるものが用いられました。「音楽」なのです。観客は言葉が速射砲のように繰り出されてくる芝居の流れの中で、音楽に一息つき、音楽によって感情的イメージを膨らませたのでしょう。そうであればこそ、リュートのようなおとなしい響きにも集中しえたのです。
 『オセロ』でデズデモーナが歌う「柳の歌」、『十二夜』の「おお、私の姐さん」、そして『ウィンザーの陽気な女房』に出てくる「グリーンスリーブズ」など、シェイクスピアの劇には、実に多くの歌や音楽が用いられていますが、それらの歌は新作もあれば、このシリーズの第2夜で紹介されたバラッドと呼ばれる、伝承民謡や流行歌もありました。ここでは劇音楽もまたあらゆる階層に開かれ、歴史に対しても開かれていたと言えます。
 シェイクスピアの劇が時代を越え、国境を越えて今日でも普遍性を獲得しているのは、彼の演劇が、ここでお話ししたように、多くの方向に「開かれ」たものとして生まれてきたからだと思われますが、今宵はそのような劇ではたしたリュート、そしてリュート音楽の重要性に改めて気付かせてくれるに違いありません。

[No.5 Shakespeare Music Sep.13]


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