Barbara Strozzi 1619-1677 |
2006年度「カメラータの目論み」シリーズ2回目は イタリア初期バロックの鬼才女流作曲家「バーバラ・ストロッツィ」 です。 舞台はルネサンスからバロックへと移り変わり、様々な大胆な試みが行われた17世紀前半のイタリア。バーバラは父の主催するサロン「調和のアカデミー」に出入りする多くの知識人に触発されました。 ソロ・カンタータを中心に100曲以上の作品を作曲し、存命中に8冊もの歌曲コレクショ ンを出版しています。これは当時の最も有名な作曲家よりも多いものでした。これらの出版には父親の後押しもあったようですが、作曲家及び歌手として教会や貴族の支援なしに活動していた事を考えれば驚くべき事なのです。 バーバラ・ストロッツィの養父はジュリオ・ストロッツィ Giulio Strozzi(1583-1652)、大作曲家モンテヴェルディのパトロンのひとりであり、ヴェネツィアの詩人、台本作家、劇場支配人でもありました。 彼女は自らの作風と同じく非常に自由奔放な生涯を送ったようで、未婚ながら4人の子供がおりました。このプログラムの表紙を飾っているのは16歳前後のバーバラの肖像画です。音楽家というよりも女性美を前面に打ち出し描かれたこの絵の意図はなんだったのか、私たちは自由に想像を膨らまさせてもらう事にしましょう。 初期イタリアバロック音楽においてバーバラ・ストロッツィの作品には豊かな創造性と共に、功妙且つ自由な知的遊戯が交錯し独自の世界を展開しています。彼女の代表作「私の涙」に見られる大胆な和声の響きからは、まさにバロックの語源である「歪な真珠」のイメージが感じ取れます。 今日使用しているアーチリュートはリュート史上、最も大型で多弦の楽器です。豊かな音量と低音を持つこの楽器は17世紀イタリアで、新しい趣味の音楽には不可欠な楽器として発明、愛好されました。カプスベルガーは名演奏家として名を馳せ、この楽器の為に多くの作品を残しています。 それでは今宵、全くの男社会とも言える初期バロック時代において頭角を現し、今なお我々の心を揺すぶるバーバラ・ストロッツィの音楽をお楽しみ下さい。 |